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2010年8月11日 (水)

「君が代は特定思想の表現であるから、それを歌わせることは特定思想の強制になる」という議論を批判してみる

本文は一知半解さんのブログでの議論を補足するための文書です。
リンク先エントリー:日の丸・君が代強制問題は、決して「思想・信条の自由」の問題ではない。

【1】「君が代」の歌詞は人に思想を与えない
 インテリ層における国歌の歌詞解釈世界に限れば、君主天皇の治世を讃え、その永続を望む心を表現したものとする解釈には一定の市民権があります。しかしその一方で、この歌を歌うに際して歌詞に感情移入し、天皇支配を賛美したり民主主義の時代を卑下している国民など、一部の復古派を除けばほとんどいません。

 私自身の被教育体験を振り返っても行事のたびに入る「君が代(当時は国歌ではない)斉唱」で天皇を賛美したこともなければ、天皇を敬う心が育まれたなどということもありませんし、級友たちのなかにそんなものがあったとも思えません。幼ない私に「天皇は偉いんだな」と初めて敬意らしきものを抱かせたのは、「天皇陛下が戦争を終わらせたんだよ」という母からのただの一言です。

 歌詞そのものは「詠み人の個人的願望」が表現されているだけであり、その願望と歌う側の心情を橋渡しする要素など歌詞には含まれていないわけですから、仮に歌詞の意味を理解したとしても「そういう意味の歌なんだな」で完結する他ありません。おそらく、戦後教育の洗礼を受けている不起立教師たちの「君が代」体験もその程度のものだったはずです。だから、彼らは自分自身の精神史にすら嘘をつき、別のところから持ち込まれた「思想強制の物語」を語っているのだと私は思っています。

 歌が人の心を捉え、人を感化するには、歌詞が表現する対象について歌を歌う側にも共通した土壌が必要です。大衆歌謡の世界も同じで、阿久悠ら名だたるヒットメーカーの手腕も大衆の時代感覚、精神世界への鋭敏な感度と、それを言葉に紡ぎ出す表現力の秀逸さに裏づけられています(時代に鈍感で類型化された言葉を並べるだけの残念な人々にはファンができません・笑)。

 つまり、戦前戦中に「君が代」が軍国主義教育のシンボルとして機能した因子は「君が代」それ自体に内属しているのではなく、それを軍国主義のシンボルたらしめた社会的・思想的な土壌にこそあったと考えなければなりません。だから「君が代」は国歌としての法的な地位を必要とはしませんでした。また、敗戦によって軍国主義の土壌が崩壊した後、「君が代」を歌い続けてきたはずの同じ日本人が「戦犯追及・平和日本、民主主義日本建設」の方向になだれ込んだ事実もそれを示しています。

【2】学校での国歌斉唱は「型」であることによって思想を棚に上げている
 しかも、学校(だけではありませんが)での「国歌」の取り扱いは「歌唱の徹底」であり、その歌詞が表現する思想内容の徹底ではありません。学校が「天皇を讃える国民は良き国民である」との価値観形成指導をしているのならともかく、実際の現場では「型」として粛々と取り扱うことでその思想内容を棚上げしているのが実態です。

 「型」であることによって思想が棚上げされている事例は珍しいことではなく、クリスマス行事で定番の「きよしこの夜」を歌うからといってキリスト教の神を賛美していることを意味しないこと、神社に初詣に出かけることが国家神道への思想的支持を意味しないことも同様です。また、教会での神前結婚式が「型」化するなかでキリスト教への帰依を意味しなくなって久しい。

 「国歌斉唱」がその思想を棚上げした後に残るものは「諸君は日本という国家に帰属している」という共同体への一般的な帰属意識の涵養くらいしかありません。そして、このような公共意識は国民未満を国民にする教育段階には必要なことであり、その必要性は地域や家族といったローカルな共同体の解体が劇的に進行する中で高まりこそすれ減じることはありません(効果がどの程度かはまた別の問題)。それは「歌詞」からではなく、「公的な場で皆で歌う」ことから来るのであって、国の側は不起立教師ほどには歌詞自体に拘りは無いはずです。せいぜい「伝統的に国のシンボルとして君が代があったからこれしかない」程度の選択でしょう。

 不起立教師たちは「型」として棚に上げたものから好んで思想を抽出し「思想問題化」することで「特定思想の強制だ」と難癖をつけているわけです。彼らが教育行政を統制する立場になった時には形式的・外面的なものにまで「思想」を嗅ぎ出し、統制する行為に及ぶであろうことは想像に難くありません。それは現実に「人権教育」という名の部落解放教育の場で行なわれてきたものです。

【3】公教育に「私の思想」を持ち込む不起立教師たち
 以上、学校における国歌斉唱は「歌と思想」の一般的関係においても、また、それが「型」として思想を棚に上げていることによっても「個人の思想の自由」とは別の位相にあることを示したつもりです。だから、不起立教師らが拘束されるのは思想そのものではなく「歌いたくない歌は歌わない自由」という没社会的な行動の自由であり、それゆえに彼らの戦線は「私」に閉じた「内心の自由」というものに収束せざるを得ない。そこには他者拒絶だけを内容とする自閉的な精神世界があるのみです。

 「個人の史観や教育観と職務命令が相容れないから命令に従えない」ということは、個人の史観や教育観を公的義務よりも優先させてよいとの主張に他なりません。「史観・教育観」は個人に内属する思想であり、それが思想である限りいかなる思想にも特権的地位など無いのですから、すべての教師の思想は対等・平等に存在の権利を持っています。それは「思想信条の自由」を基礎付ける原理の一つでもあります。

 近代社会に確立しているこの命題が正しく、同時に不起立教師の「個人の史観や教育観を公的義務よりも優先させてよい」という論理が並び立つとすれば、全ての教師がそれぞれの思想に基づき公的義務に服さない権利を「対等・平等」に持てることになります。そうなれば、学校は教師の肩書きを持っただけの「私人」が自由気ままに自己の思想を押し立て合う混乱の場にならざるを得ず、もはや公的教育の場としては自壊するほかありません。

曰く「科学は兵器開発の血にまみれているから」
「社会科は自虐史観を刷り込むから」
「国語は自国中心主義の言語的基盤になるから」
「英語は欧米への文化的屈服の基礎になるから」
「武道は他民族殺戮の手段になったから」
「競走は結果平等という私の理想に反するから」等々、

いくらでも「私の思想と相容れぬ」ことを理由にして職員室に「着席」していることができるでしょう。実際は、大多数の教師たちが不起立教師のように公教育に「私の思想」を持ち込まないから崩壊を免れているだけのことです。つまり、彼らは彼らが少数派であることによって彼らの行動の持つ社会的意味に直面せずにいられるのです。もしそうでないとするならば、彼らは彼らの思想だけに公的義務を押しのけてもよい特別な地位を与えていることになります。

                 ※   ※   ※

 以上は不起立教師批判としてはまだ半分くらいです。【1】からは彼らが信奉している史観=「加害者である国家と被害者である無垢な国民」という紙芝居史観への批判が派生しますし、【3】からは大衆の批判を意に介さぬ彼らのエリート的閉鎖性への批判が派生します。それ以外にも、彼らの教育思想や職業的責任意識の問題など、論点はたくさんありますが、また時間のある機会を見て書くかもしれません。

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